おきらくごくらく。

山と自然と不思議。日常のあれこれの雑記ブログ。

承認欲求という名の。

最初にこれは、誰のことを批判したりするために書いているのではないし、

ただ自分の気持ちを整理したいだけで、

誰の何の役にも立たない記事であることをお断りしておきます。

 

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先日Twitterで、ひとりの中学生が

裸足で?アメリカを横断しようとしている、

というTLが流れてきた。

 

チラリと覗いてみた時に

『あ・・・

 これはあまり見ないように (気にしないように) しよう』

と思った。

 

 

アイコンで見たその子の顔は、

栗城くんを思い出したからだ。

顔かたちが似てるわけではない。

何かが・・・似てる気がした。

 

 

その後チラホラフォローしてる人たちが、

その子のことを言及しているらしき事に気付いて

再び見てみたら、どうやら警察に保護されて

帰国する決断をしたらしい。

 

その子のツイートには、

たくさんの心配の声や、

叱る言葉、帰国の決断を喜ぶリプライが付いていた。

栗城くんの名前を出して諌めている人がいて、

やはりそう思う人がいるんだなと。

 

 

 

栗城くんも、

『僕には力及ばずでした。』

と笑って自分を見つめ直せば良かったのに、

と思った。

そうしたら、周りの人達はもっと彼に好感を持ったはずだ。

自分の喜びのためだけに、

山に登るべきだったし、

彼は自分の作り上げた幻想のファンのために

山に登り、それに振り回されて死んだ。

感動や勇気は、意図して他人に与えられるモノじゃない。

それは受け取る側の問題だ。

 

 

 

栗城くんには、北海道の仕事で山を降りてきたとき、

一度だけ会ったことがあった。

北大のOBは本当に優秀なガイドが多く、

仕事終わりの飲み会で

『こいつアブねーんですよ、

    何とか言ってやって下さいよ〜〜』

と紹介されたのが彼だった。

よく覚えていないけど、たぶんデナリに登った後ぐらいだったのかなと思う。

結構ムチャをする若者、という印象の好青年だった。

 

それからしばらく経って、

様々な媒体に栗城くんが出るようになって、

驚くことにコンビニの雑誌の表紙に

アイドルみたいに写っていたりした。

 

『ああ、この子はこれがやりたかったんだな・・・。

 山でなくても良かったんだろうなあ』

 

そしてどう見ても単独登山には見えないのに、

単独を標榜していた。

私は本当の無酸素単独で、8000m峰をいくつも

登っていた登山家を間近に見ていた。

ヒマラヤに挑戦していた長い期間、

絶頂期には冬の富士山を1日に3往復するような人で、

言葉に出したことはないけど、

人間的にも本当に尊敬出来る人だった。

その人自身やそのガイディングの一端を見れたことが、

今の自分にとって計り知れない大きな経験だったと思っている。

あの当時は、スゴイなとしか思っていなかったが、

時間が経てば経つほど、それがどんなに大きなことだったかと思う。

 

 

それだけに、

そういう無酸素単独のアルパインスタイルを真剣に突き詰めてきた先人たちに対して、

恥ずかしくないのか!?と思っていた。

山岳部の先輩や、多くの登山家の知り合いもいるだろうに。

自分だったら恥ずかしくて、

たぶん顔をあわせることも出来ない。

 

だからなるべく栗城君のことを見ないようにしていた。

 

 

そしてまた何年か経って、

ある年のお正月に初めてNHKで放送された彼の番組を見た。

ダウラギリの山頂直下で自分の片手にハンディカムを持ち、

泣きながら登る自分の顔を撮っているという異様な姿に

衝撃を受けた。

 

高所単独登山者は、他に自分の登頂を認めてくれる人がいないため、

山頂に印を残したり、

カメラをストックに固定して、少し戻ってから

わざわざ自分の登る姿を撮影したり、

山頂を撮影したりするのが大きな登頂の証拠となる。

 

でも、

彼の姿は決定的に何かが違っていた。

苦しむ姿を見せたい、

そこに焦点が合っていた。

 

 

神経が違う。

 

このまま行ったら、死んでしまうのではないか

 

 

 

今までは、「危ない人」と感じていたことが

はっきり死の匂いがした。

 

 

その後も凍傷を負った手をカメラに向かって笑顔で見せている写真や、

何回ものエベレストへの挑戦というか執着に、

なぜそこまでするのだろう?

人を惹きつけようとする為に命を賭けるのか?

 

ついにその手でエベレストの南西壁へ挑むと聞いて

「死にに行くようなものだ」

と思った。

 

「そのルートで絶対に登れるはずが無い。

 本人がわかっているはずなのに」

 

 

 

 

そして2018年、訃報が入った。

心不全や低体温など、様々な噂がネットを飛び交った。

予想をしていたことだったが、やはりショックで

それ以上見たくなかった。

 

 

 

先日初めて、

栗城くんの死後、まとめられたNHKの番組を見せてもらった。

登山家の花谷さんがトレーニングに付き合っていたこと、

吉本に所属していたことなど、初めて知った。

 

最後にたぶん望遠で撮影された

栗城くんの遺骸が写った。

連絡がつかない彼を、必死で探していたときの映像なのだろう。

 

そのとき初めて本当に死んでしまったのがわかった。

 

 

 

彼の周りが彼を追い込んだとネットで書かれていたが、

実体の無いファンの幻想を作り上げたのは彼だ。

自分の登山をしているのなら、

ネットの声にそれほど惑わされることはない。

究極、見なければいいし、

応援も批判も、同じようなものだ。

自分で受け留めるラインは引けたはず。

 

ネットで書き込むのと、実際の体験は

重みがあまりに違う。

そこに自分の登山をおいてしまったことが、

最大の違和感だったと思うし、

今までの登山や挫折の経験を生かし、自分の限界を認め

他の可能性に生かすことも十分できたはずだ。

 

それだったら、批判的だった私のような人間でも

「頑張ってるな」と好意的に見始めたはず。

 

吉本に所属していたというなら、

余計に自分の本質の気づきと、新たな可能性があったはず。

 

 

私は完全に部外者のアカの他人だけど、

 

それでもただただ悲しい。

 

悲しい記憶として彼の名前が残る。

 

 

無謀さは若者の特権で、

自分もそうだったと思うけど、

自分を見つめる時間を持たないことは、

人生の時間を短くし、

 

これはやりたいことの足を引っぱる言葉でもあるのであまり言いたくないけど、

いちばん大事な人を悲しませることがあることを、

知っていてほしい。

 

 

そして行き過ぎた承認欲求に身をまかせることは、

破滅以外に行き着く先がないと思う。

 

 

今でも時折考える。

栗城くんにとって、望んだ形の人生の最後だったんだろうか。

 

もしもそうでなかったとしたら、

どこで引き返せなくなったんだろうかと。

 

彼以外にわかるはずのないことだけど。