都内に安倍晴明ゆかりの創建から千年以上の神社があると聞いて、
全然知らなかったので驚いて、新月の日に訪れてみました。
この神社の中で、もっとも落ち着く場所でした。
樹齢370年のクスノキ。
社殿を両側から守るように2本の巨樹が植えられていました。
ここに来て、ちょっといろいろと驚いた事がありました。
まずはこの場所の立地。
中川という川のすぐ近くで、
川岸の遊歩道より明らかにかなり低い場所にありました。
そして例によってなぜか裏側から入ったのですが、
たくさんの動物の写真や、ポニーの檻があって、
敷地の中には、幼稚園と小さな公園がありました。
一瞬小さな遊園地かな?という雰囲気・・・。
奥の幼稚園の園庭は、すごく楽しそうな造り。
左側には江戸時代に作られた、総銅造りの五重の塔が。
非常に貴重な物のようです。
熊野神社のヤタガラスと、その下の飾りがまるで何かの顔のように見えます。
晴明が勧請した、関東でただ一つの神社と聞いて、
「こんな場所にあの時代にわざわざ安倍晴明が来るのかなあ〜〜?」(←失礼)
とまず疑う私。
当時は沼とか水の中だったんでは・・・?
とか思っていたら、鳥居の神門にありました!
荒俣宏氏がこの神社について語っている張り紙が。
ゆっくり読もうと思って写メして来たので、
興味のある方は拡大して読んでみてください。(笑)
この特集によると、
江戸時代以前からこの葛飾区立石の社はあって、
創建とされる長保年間(999〜1003年ごろ)というのは、
確かに安倍晴明の晩年期と重なるので、
安倍晴明によって勧請されたという伝説も、あながち根拠がないわけではない。
五芒星を基にしたこの神社の五角形の敷地は、
陰陽師によって水害などから守られるための治水工事が行われたのではないかと
いう説です。
実際江戸時代には、この神社のあたりは大水の被害から守られて、
避難場所になっていたのだとか。
あと地図で見ていて気が付いたんですが、
皇居(江戸城)から見て、ここも鬼門の方角ではありますね。
特に豊臣秀吉が日本中の暦制度を統一しようとした時に、
邪魔になった陰陽師が関東に追い払われてやって来たこと、
この神社の隣の南蔵院は、晴明と縁の深い熊野修験(修験道と陰陽道の神仏和合)で、
密教と山岳修行を組み込んだ真言宗豊山派で、この密教僧たちも
秀吉に一掃された根来山真言宗だったことなど、
非常に興味深い考察がなされています。
後から調べたら、
中川は8代将軍吉宗が水害から村を守るために、
享保10年(1725年)から14年間をかけ、池や沼をつなげて
ひとつの流れを作ったのだとか。
そのためにこの周辺は「九十九曲がり」と言われるほどの屈曲の激しい場所に
なっています。
中川の地名は、隅田川と江戸川の間だから名付けられたのだとか。
地図で見てると、大雨になったら凄いことになりそうです・・・。
そういえば、
静岡県の御前崎近くの大須賀砂丘にも、
安倍晴明が来たという伝説の晴明塚があって、訪れた事がありました。
いろいろ感じた事があって、とても興味深かったです。
以前記事にしていたんですが、
また時間があったら書こうと思います。
なんと、川岸の土手に桜が多いのは、
将軍が花見客に土手を踏ませて固めるために植えさせたのだとか・・・!
マジか、賢いwww
まったく知りませんでしたわwww
知らなかった〜〜〜
こちらの神社は
「新月に祈り、満月に感謝する」という
新月と満月の夜参り参拝という祈祷を行っているそうです。
(19:30より受付開始、初穂料5000円)
すぐ近くの立石様はこのあたりの地名となっており、
鋸山から切り出された古墳の石材が東海道の道標として
使用されたのではないかと言われていますが、
発掘を行っても底が現れなかったり、祟りの伝説があったり、
日清・日露戦争で弾除けのお守りとして削り取られたりで、
現在はほんの少しの頭が出ているそうです。
鹿島神宮の要石みたいですね。