ウォルター・ウェストンと上條嘉門次(かみじょうかもんじ)という
2人の名前をご存知でしょうか?
日本アルプスと呼ばれる山々のルートを、
いくつも初めて踏破した英国人と、それを案内した
上高地の自然を愛したひとりの山人の名前です。
この本は、穂高や上高地を訪れて山に登った事のある人には、
非常に面白くてたまらない、
そして日本の登山の黎明期がどのようなもので、
どんな変化が起こっていったのかをリアルに見せてくれる素晴らしい本でした!
この本は、嘉門次小屋4代目のおかみさんにあたる
上條久枝さんという方が書かれているのですが、
日本の近代史の教科書には書かれていなかったような、
日本の開国の歴史から第1章が始まります。
この本の全てに渡って非常に詳しく、明瞭な文章に驚きます。
日本の開国は、ヨーロッパ各国による捕鯨の乱獲が関係していたこと、
捕鯨船団の寄港を許していたものの、
鎖国をしていて、水や薪を恵んでも商取引には一切応じなかった幕府に
米国は開国を迫り、東インド艦隊司令官ペリーに開国交渉を行わせました。
その後送り込まれたハリス総督は、日米修好条約の締結に成功しました。
高潔な人柄で生涯女性を近づけなかったらしく、
驚いたことに有名な「唐人お吉」は、ハリスのお話ではなく、
下田の領事館であった誰かの話を脚色されたものなのだとか。
幕府がハリスと調印した不平等条約を見て、
程なくオランダ・ロシア・英国・フランスとも、同様な条約が締結されました。
この安政五カ国条約は天皇の勅許なしに行われ、
日本の主権が天皇にあるのか幕府にあるのか、
国際政治の中に放り込まれるまで、日本では考えられた事もなく、
諸外国の見解もまちまちという状況だったようです。
当時の混沌とした状況が伺えます・・・。
幕府が倒れてこの不平等条約を引き継いだ明治政府は、
1894年に日英通商航海条約で治外法権を撤廃、
1911年に不平等条約の改正を行い、関税自主権を回復するまでに
53年もの年月がかかりました。
安政五カ国条約では、日本居留外国人に永代借地権を与えており、
当時寂れた漁師の家が数件あるだけだった横浜に乗り込んできた商人たちが、
できる限りの土地を手に入れ、それを売る事で資本を手に入れ、
商業活動を始めました。
この永代借地権はなんと1942年(昭和17年)まで存在し、
横浜市の行政に、長期間困難をもたらしたそうです。
幕府はこのような直轄領にのみ港を開いて、
貿易の利を占めようとしましたが、
日本の伝統的に小さい金と銀の比率を調整しなかったために、
あっという間に日本の金が海外に流出し、物価の高騰を招きました。
国際的な金と銀の価格比率が1対15であったのに対し、
日本では1対5であったため、外国人は持ち込んだ銀を金に交換し、
それを香港や上海で銀に交換するということを繰り返すだけで、
誰もが大金持ちになれたのです。
それが知れ渡ると香港や上海の大商社に雇われていた人々や、
様々な国から一攫千金を狙う山師たちが集まり、
中国市場で売りさばくことができなかった粗悪な品々を持ち込み、
現金売買と貨幣交換操作で大きな富を得て、
瞬く間に富豪の生活をするようになりました。
大名行列を騎乗のまま見物し、薩摩藩士により無礼打ちされた生麦事件は、
このような英国人だったのだそうです。
(ちなみに逃げ込んだアメリカ領事館・本覚寺で
手当てをしたのが後述のヘボン博士。
島津久光の大名行列の中にいたのは、大久保利通。)
英国政府によりその賠償金10万ポンドを要求された幕府は、
その後もトラブルのたびに賠償金を取られ、
財政悪化と政治的無力をさらし、弱体化していきました。
横浜の居留地の外国人は投機売買に熱中し、
日本の小商人たちは
ペテンとインチキのあくどい商売で対抗し、
日本市場から正常で正当な貿易についての概念が失われていきました。
日本が「ジパング・黄金の国」とか言われていたのがなぜなのか?
不思議で仕方なかったのですが、こういうことかと思ってしまいました。
まあ時代の違う13世紀のマルコ・ポーロの「東方見聞録」はかなりの部分が想像の話だと思うんですが、
金と銀との比率が小さかったことや、世界を知らない無知を狙って、
生き馬の目を抜くような人々の一攫千金の的となったと。
まさしく、「黄金が安く手に入る国」だったんですね・・・。
世界の交流が始まった時からの資本主義の
「市場は需要と供給によって調整されるので、
利潤を追求する経済活動は、自由にして構わない」という考え方ですね。
この他にも見逃せないのが、ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士夫妻です。
ニューヨークで最も大きな病院の院長だった富豪の
ジェームス・カーティス・ヘボン夫妻(ヘップバーン)が、
布教のために日本に渡り、一から日本語を学んで「和英語林集成」を出版し、
日本人学生に医学を教え、無料の診療所を開き、
教育と施療と手術の間に辞書の編纂をするという超人的な仕事ぶりで偉業を成し遂げました。
英語習得の必要性を痛感した幕府が、ヘボン博士に英語教育を依頼し、
初めに願い出たのがのちに幕府を倒す長州人の大村益次郎でした。
当時は英語からオランダ語に翻訳されたもので海外を知るのが唯一の方法でしたが、
開国して知った現実を見て、幕府は英語への大転換に踏み切りました。
ヘボン博士はまず、日本人に西洋人の文明の基準である数学を教えてみて、
彼らが全員二次方程式を含む代数、平面三角法、球面三角法まで
すでに会得していることに驚き、授業を英語教授だけに限りました。
すでにオランダ語を読みこなしていた彼らは、
長足の進歩を遂げましたが、日本人に正確な発音を教えることだけは難しかったのだとか。
この夫妻のヘボン塾が、今日のフェリス女学院や明治学院の源流となっており、
高橋是清や実業家などの、多くの有能な人々が巣立っていきました。
これらを成し遂げたヘボン博士は
聖書の日本語翻訳を終え、健康問題もあって、在日33年77歳で、
クララ夫人と共に米国に帰国しました。
この他、「ジャーナリズムの上陸」「御雇外国人」
「アーネスト・サトウと日本旅行案内」など、
近代日本の辿ってきた道が生々しく描かれ、
昔教科書で昔習ったことの真実は、こうだったのか・・・と、
まだ第1章なのにすごい内容です。
そしてこの本の主役、
嘉門次さんの生まれたのは幕藩体制下の1847年、
まったく米が取れず、それでも豊かな森林資源を持つ、現在の松本市安曇稲核。
杣として働き、蕎麦などを育て、山菜や木の実をとり、
冬は炭を焼いたり狩猟をして暮らしを立てていました。
婿入りをした年は明治1年。
その後大凶作や廃藩置県によって、
官林となった森林は伐採禁止となり御用杣も消滅、
現在以上に大変な激動な時代だったようです。
やがて調査助手として再び山に入るようになった嘉門次さんは、
これを機に性分に合う山での仕事で家計を助けようと、
上高地で猟と岩魚釣りで一人暮らすようになります。
穏やかな樹林に入ってすぐに、
これが明治13年(1880年)に上條嘉門次が建てた小屋です。
現在は宿泊や、岩魚を食べたり出来るお休み処になっています。
35歳で小屋を持ち、45歳でウォルター・ウエストンを前穂高岳に案内した嘉門次さんは、
夜明けと共に起き、囲炉裏でご飯を炊きながら縄をなうという
きちんとした生活ぶりだったそうです。
初期の槍ヶ岳の登山者の登山日記に、
57歳だった嘉門次さんの暮らしぶりを語る言葉が書かれていて、
まっすぐで飾りのない自然な生き方をされていた人のようで、
「世間では自分のことを仙人のように言うがそんなことはない。
毎日きれいな山を見ていい空気を吸い、
めんどくさい浮き世を離れ何の苦もなく暮らしているので、
あまり年を取ったという気もしない。」
という語り口に人柄が偲ばれました。
当時、富山県の有峰でも有名だった嘉門次さんは、
槍ヶ岳を抜けて上高地まで1日で帰っていたとのことで、
確かに最短距離ではあるのですが、
当時の猟師たちにとっては村内感覚だったそうで、山人のすごさを感じます・・・。
その猟師たちから尊敬を込めて「槍ヶ岳の神」とまで呼ばれていたそうです。
お会いしてみたかった方の一人です・・・。
また槍ヶ岳の山麓で、一夜を明かそうと穴に入って大きなクマに襲われ、
頭に噛み付かれ背中に爪を立てられたまま(!)、
なんとか窮地を脱してこのクマを獲ってやろうと、
岩穴の外に出て急所を蹴って絶壁から落とし、
その後探し回って日向で寝ているところを仕留めるなど、
素晴らしく豪胆な人だったようです・・・!
そんな嘉門次さんにとって、
静かな山での暮らしは充分に満足できるものであったようです。
さてもうひとりの主役、
登山の黄金期を迎えた英国で生まれたウェストン氏。
ケンブリッジ大学から神学校に入り、数々のヨーロッパ・アルプスを登ったのち、
宣教師として来日しました。
短期間で任地の熊本を離れ辞職したのは、どうやら登山をしたかったためではないかと
言われているようです。
その後、神戸から日光白根山、男体山、富士山に登り、
雲仙岳、桜島、霧島山、中岳〜新燃岳〜獅子戸岳〜韓国岳、
阿蘇山・祖母山・五家荘、耶馬渓と堪能し、
いよいよ日本アルプスへとやって来ます。
軽井沢から浅間山、松本から槍ヶ岳、木曽福島から御嶽山、
木曽駒ケ岳から伊那、天竜川を下って神戸に帰りました。
そして徳本峠から槍ヶ岳へ向かう途中、
梓川の渓谷で見かけたたったひとりの年取った猟師から
大きなイワナを12匹分けてもらったそうなのですが、
これが上條嘉門次でした。
この当時、この周辺には全く人がいなかったんですね・・・。
この時ウェストン氏は、他の案内人と友人とともに槍ヶ岳を目指していましたが、
登頂は叶わなかったようです。
氏は、この当時日本に訪れる外国人が読んでいた
アーネスト・サトウが作ったガイドブック「日本旅行案内」を参考にしており、
伊那から144キロ離れた浜松まで、高額の料金を払って激流下りを楽しみました。
その後マグニチュード8の大地震(濃尾地震?)に遭遇し、
しばらくの間、救援活動や募金活動をしていたそうです。
(アーネスト・サトウも赤石岳始め、様々な日本の秘境の山を訪ね歩いていて、
それらが「日本旅行記」になっています。)
この後、ウェストン氏は5月におそらく初となる積雪期の富士登山に
成功します。3人の案内人は6合から上には登らなかったそうです。
また西洋の影響の未だ及ばない岐阜の関や高山といった場所で
日本の古い町と人々の品格に出会って嬉しかったと記述にありました。
そして念願の槍ヶ岳登頂のち乗鞍岳や、外国人として初めて赤石岳に登頂したりと
たくさんの人々と出会い地域を訪れての登山は続き、
それだけでも非常に興味深いのですが、
いよいよ1893年(明治26年)に上條嘉門次を案内人として前穂高岳に登頂します。
ちなみにこのほんの2週間前に嘉門次の案内で、
前穂高岳に初登頂した館潔彦(たてきよひこ)は、
日本中を驚異的なスピードで測量した陸軍省の測量技師で、
頂上付近で足を滑らせ18mも滑落し、奇跡的に命拾いをしました。
両手で岩をつかみ、後ろ向きに下る嘉門次に対し、
自分は岩を背にコウモリ傘で下を探るという危うい形で直後に足を滑らせたようです。
(あそこから滑落とは・・・、と冷や汗が出ます。)
この時に彼がしていたのは、日本全国の地図作成のための三角点の選定でした。
当時の三角測量法では標高は問題ではなく、
ほとんどが難所・高所に置かれることになり、
現在の地形図約1000面のうちの972個の一等三角点のうち、
263個が館潔彦の選点によるものだそうです。
彼は10年間で東北、九州、四国、中部、北海道、千島列島北端まで周り、
超人的な仕事量を残しました。
この時のウェストンとの登山は、嘉門次に登山の面白さを教え、
次にウェストンと登る18年後まで、
新たに見つけた奥穂高岳までの南陵ルートを一緒に登りたいと、
ずっと楽しみに待っていたようです。
ウェストンが日本の最後の夏を1ヶ月かけて日本アルプスの始まる日本海側から
白馬岳・笠ヶ岳・常念岳・御嶽山と横断します。
この時の同行者がカナダ人の宣教師と、同志社大学を卒業間もない浦口文治でした。
同志社大学創立者の新島譲は、米国に渡り理学・神学を収めた後、
岩倉具視とともに使節団としてヨーロッパに渡り、
そこでオックスフォードやケンブリッジの学生がリュックを背に山野を跋扈する姿を見て、
心身を鍛え浩然の気を養い、プライドを持った逞しい若者を育てるにはこの方法が良いと
同志社大学で同様の活動を取り入れました。
これによって浦口と同じように登山の基本を身につけた河口慧海は、
のちに単独でヒマラヤを越えチベットに入国しています。
ウェストンが何度か笠ヶ岳に登ろうとして、
ことごとく地元の村長や村人に反対され、
諦めかけたところで立派な顔立ちの猟師と出会って
猟師の親方の中島という人物のお陰で、
ついに笠ヶ岳に登るのですが、
実はこの山は抜戸岳であったという検証が最近なされているようです。
当時の日本人にとって、山は霊山として穢されることを非常に嫌ったこと、
山人にとっては明確にふたつの山に違いがあまりなかったこと、
村人の反感をそらせることなど、
とても納得が行くことばかりでした。
ちなみに山を穢すと災厄が起こるとする自然信仰はスイスにもあり、
スイス人ではなく英国人がアルプス登山の開拓者となったのは、
16世紀に起こったピューリタリズムがあらゆる偶像崇拝や迷信を退けた結果、
英国人には山や自然に対する宗教的、
精神的な恐れがなかったことが、その大きな要因であったと言われています。
なるほど、
産業革命や工業の発祥と、世界中の山の征服、世界中の文化遺産の収集(大英博物館)など、
英国から始まったと言って過言ではない・・・。
よくお客さんにも話すんですけど、
日本の登山の歴史と、ヨーロッパの近代登山の発祥は、まるで違うんですよね。
ヨーロッパの近代登山は、山に登ることそのものとその喜びを目的とし、
衣食足りた上で始まった文化で、
日本は山人や修験者、信仰登山から始まって、
どこの山にも山頂には多く祠などがあります。
なので嘉門次さんがウェストン氏や他の登山のガイドとして、
登頂を目指して味わった感覚というものは、
新たな世界というか、
この当時非常に新鮮なものだったのではないかと想像します。
ヨーロッパにももちろん18世紀以前の信仰登山はあったと思いますが、
いま現在の近代登山は、この当時にウェストン氏たちからもたらされた、
登山文化が主体のスポーツ登山が主流になっていると思います。
ネパールに行っても、この山は神が住む場所で本当は登る所ではないという気持ちは、
非常によく分かります。
日本に気持ちを残したまま帰国したウェストン氏は、
結婚したのち、女性登山家として実力のあったフランセス夫人を伴い、
再び来日し、かつて共に登った日本人たちと、
また登山を再開します。
そして3回目の来日ですでに18年経っていましたが、
嘉門次とも再会し、根本清蔵と妻のフランセス夫人と共に奥穂高南陵に登っています。
本当に驚きます。
前回と違って山頂からの眺めも素晴らしく、
全員が登頂の喜びに満足のできる登山だったようです。
ウェストンはこの登山の前に、嘉門次の弟子の若い猟師たち、
根本清蔵と他2人と共に、北鎌尾根の初登攀を1日で成し遂げているのですが、
ウェストンのルートファインディングや登山能力の高さと、根本清蔵の山人としての
それが、非常に高いレベルだったのが分かります。
宿や村の人々、学生たちとの出会い、
どんどん変わっていく日本とかつて親しんだ山々の自然の変化、
ヨーロッパとの登山の違いや彼らが過ごした岩小屋など、
非常に読んでいて胸が踊る気持ちになりました。
宿で出会った騒がしい学生たちの中に、なんと高村光太郎の名もありました。
そしてウェストンの書いた「日本アルプスの登山と探検」という本で、
嘉門次の人柄と技術を高く評価していることから、
ますます嘉門次の名が知れ渡って行ったようです。
友情の証として、ウエストン氏から贈られたピッケルと、
嘉門次さん愛用の猟銃です・・・!
この囲炉裏の間は、建てられた当時のままだそうです。
ここから日本アルプスの現在につながる歴史が始まったと言っても、
過言ではないでしょう。
以前の訪日の時に、日清戦争の幕開けを日本で知ったウェストンでしたが、
剣岳では有名な佐伯平蔵の案内で、立山〜剣岳〜針ノ木峠から大町に出た時、
第1次世界大戦の勃発を知り、帰国を決めたそうです。
嘉門次小屋から上高地バス停へ向かう途中のルート。
本当に美しいです。
日本山岳会の発起と発展に深く寄与したウェストン氏は、
帰国してからも関東大震災の被害を聞き様々な援助を行ったり、
日本という国を知ってもらおうと多数の講演や本を書き、
英国での日本の知名度を拡げ続けていましたが、
満州事変後に英国で起きた熾烈な排日運動のさなかにも、
日本擁護のために英国中を講演して回りました。
ウェストン氏の講演の日本人と日本という国に関しての内容は、
ぜひ一読していただきたいと思います。
彼がどのように日本の自然と日本人を愛していたかが、
非常に伺える名文です。
1919年に訪ねてきた槙有恒にグリンデルワルト行きを勧め、
槙は半世紀近く各国の名だたるクライマーが失敗してきたアイガー東山陵を、
地元のガイドたちと初登頂し、記念と感謝の思いからミッテルギ小屋を建てました。
ウェストンが種を蒔いた日本の近代登山が、
世界の登山界を震撼させる成果をあげた瞬間でした。
この後、ウェストンと槙有恒は、秩父宮のマッターホルン登頂など、
10座を越える登頂の支援をし、ウェストンはまるで孫を心配する祖父のように
世話を焼いたそうです。
この本やかつての日本を外国人の視点から語られているものに、
「日本人は子供を非常に可愛がり、日本は子供の天国である」
と書いてあるものを多く見ます。
貧しかったけれども大らかに子供に対する日本人の姿が当たり前だったようで、
少子化が叫ばれ、人口減少が避けられない日本人が失ってしまったものの大きさと
その事実に頭を殴られるようです。
資本主義と拝金主義に完全に飲み込まれていった姿が、
現在の私たちのような気がします。
晩年にのちの日本山岳会会長の松方三郎が訪問した時、
上高地にホテル(現帝国ホテル)が出来ることを
毎月のジャパン・メールで知っていたウェストン氏は「本当か」と尋ね、
窓の外に向けた目には涙がいっぱい堪えられていたそうです。
いま現在私たちが安全・便利に苦労なく訪れることのできる上高地は、
これほど美しく見えても、ウェストン氏が体験した当時の上高地とは
全く違うものになってしまっているのでしょう。
この本を読んでいると、
ウェストンという外国人の目から見た当時の日本人というものや、
自分の仕事を真摯に行っていく名も残らない数多の人々のひとりひとりが、
時代や歴史を作り上げていくのだということを、強く強く思いました。
ページをめくるごとに現れてくる知らなかった事実に、
まるで自分がこの時代の日本の、
この北アルプスの人跡も少ない中を探険しているかのような気持ちになり、
あるいは現在につながる世界と日本の趨勢を改めて知り、
この本を読む前と後では様々なものの見方が変わってくるであろうと思います。
山に興味のある方、上高地を訪れた事のある方は、
ぜひ一読をお勧めします。
最後に上條嘉門次さんの口癖だった言葉を贈ります。
「猫のように歩け。
石ひとつ落とすな。」
(※掲載の写真はすべて昨年2022年の上高地の様子です。)