おきらくごくらく。

山と自然と不思議。日常のあれこれの雑記ブログ。

盂蘭盆会。逆さ吊りにされるのは・・・

路傍のピンクのユリ。

 

 

もうすぐお盆がやってきますね。

お盆って一体いつから始まったのかなあ

 

世界中で亡くなった魂が帰ってくるのを迎える風習がありますが、

盂蘭盆会(うらぼんえ)とはサンスクリット語のウッランバナ(逆さ吊り!)

からきているそうです。

 

お盆・・・逆さ吊り!???

 

ブッダの十大弟子の目連(モッガラーナ)が、

自分の神通力で死後の母親を探してみたら、何と地獄に堕ちていて、

逆さ吊りにされて飢えと乾きに苦しんでいました。

何とか助けようとするも、自分の力で送った食べ物や水は灰と化して、

かえって母親の苦しみは増すばかり。

 

ブッダにこのことを訴えると、

 

「お前の母親はお前には優しい良い親であったが、

 他の多くの人にはそうでなく、ひどいことをしていたのだ」

 

 

これ聞いたとき、結構びっくりしました・・・!

モッガラーナにとっては、優しくてとってもいいお母さんだったんでしょうね。

しかしてその裏の顔は・・・・。

 

でもこれ、多くの人に当てはまるかも・・・。

私も家族に対してはひどくコントロールが効かなくなるので、

いわば人に親切にできるのに家族にきついという逆のパターンに当てはまるのかも・・・。

 

 

そしてブッダは母親を救いたかったら、

「同じ苦しみを持つ多くの人たちを救うように」

と言ったそうなのです。

モッガラーナは、長い期間の修行を終えて飢えと渇きに喘ぐ修行僧たちに、

食べ物や飲み物、寝床などを用意して癒すことで

その徳があの世の母親にも伝わった・・・というのがお盆の始まりなんだとか。

 

 

中国の山に何回か行っていたとき、

すごくいろいろな人たちがいて、良い人もいれば嫌な人もいるのは

日本でもどこでも同じなんですが、まず強烈に意思表示が強い。

女の人が道路で車同士でカスって相手の男にパンチを食らわすぐらい強い、

叫ぶ、怒鳴るは当たり前で、黙っていたら空港のカウンターの列でも

どんどん割り込みされて、予定のフライトに乗れなくなってしまうほど(笑)

 

でもお年寄りにはめちゃくちゃ親切で、乗り物の中の高齢者には、

どこの人だろうと座れ座れと席を譲ってくれる。

 

私からみたらこのすごいアンバランスさに思わず

「なんで中国の人は平気で割り込みとかするの?特に漢民族の人?」

って聞いてみたことあったんですけど、

「それは儒教の教えが浸透していて、

 まず自分を救ってから他人を救えと教えられているからだ。」

って言われました。

一理あるような気もしますけど、

まあ聞いた相手がぜんぜん信用できない人だったので、

その人の勝手な言い訳みたいな理屈だと思ってるんですけど。

(他の人は優しい人ばかりだったので、わざわざそんな質問をしなかった笑)

 

モッガラーナは十大弟子であり、

私には分からない悟りを得た人だったのだろうと思いますが、

ウッランバナ(逆さ吊り)の話は、

 

「自分が救われているかどうかに関わらず、

 出来るだけ人を助けろ。」

 

って話なんだろうと思うわけです。

 

でも、でもね、

赤の他人には当たり前に出来るそういった事も、

身内に返される乱暴な言葉とか、

配慮のない発言などに、

なかなか平常心が保てなかったりするわけです。

 

自分が自分でいるために、家族と距離をおいて来たわけなんですが、

超えたと思ったことも、小さくでも毎日ダメージを食らうと

やはりボディブローのように効いてくるわけで。

 

「自分にパンチ喰らわせるような相手を、

 助けようなどと思うな。(共倒れになる)」

 

と、私は自分に言い始めたところです。

 

愛情という言葉をおっかぶせて来て疑わないこういう魂とは、

どんな会話が成り立つのでしょうね・・・。

 

なので私はウッランバナというのは、

モッガラーナが自分の母親を神通力をもってしても直接救えなかったように、

地獄で逆さ吊りになるのが母親だろうが自分だろうが

きっと直接はお互いを助けることができなくて、

第三者の誰かに自分たちのしたことが巡り巡って助けてもらえるのではなかろうか、

という悟りを得ました。

 

そう思うとなんだかグッと楽になります。

 

だいたいあのキリストでさえ、

自分の故郷では奇跡を起こすことが出来なかったらしい。

(昔からのイエスを知る人は、信じなかった)

自分をいつまでも子供だと思う相手には、奇跡は起こせなかったそう。

基本的に子供だ親だという立場に固執する人は、子供と思う相手の話は全然聞かない。

相手が自分の下であるという根拠のない構成にしがみついているからなんですね。

 

だから家族でちょっと苦しい思いをしている皆さん、

大丈夫ですよ、

自分だけで何とかしようとしても出来ません。

だから罪悪感を持ってもどうしようもないのです。

あとは自分の積んで来た徳、親自身の積んで来た徳が帰ってくるだけです。

そういう親は多分子供のいうことはマトモには聞かないで、

誰か他の人の話は素直に聞いたりするはずです。

そうじゃない人もいると思いますが、もうそれは放っておきましょう、

そうしましょう。

 

どんな相手を引きつけるかは自分次第、

短い人生、なるべく自分に正直に生きていきましょう。

 

死ぬときは善悪の彼岸へ行ってしまうのかもしれません。

自分に罰を与えたり、耐えきれないほどの苦しみを与えるのは、

自分の良心というものに自動的に付随する働きなのかもしれません。

 

生きているときは特に視野が狭いと思うので、

その自動装置の働きに耐えきれなくなるのかも知れないです。

知らんですけど。笑

 

逆さ吊りを怖れずに、自由になりましょう。

 

ムラサキシキブの花。

ムラサキシキブの花。

 

初めて見ました、ムラサキシキブの花のようです。

このあとあの小さな紫色の実がつくんですね。

 

季節も、命も止まることなく巡って、

いま周りにいる人で、100年後に生きてる人は誰もいないということを、

もう一度よく覚えておこうと思います。

 

 

 

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