う、美しい・・・・。
この時は6月。
ついに初めて岩手県は平泉の地に訪れました・・・。
東北を友人と1週間ぐらい車で旅していたんですが、
なぜか中尊寺には行かずにこの毛越寺(moutuji)にやってきました。
今話題の「鎌倉殿の13人」に出てくる、奥州藤原氏や源義経ゆかりの地ですね。
このあちこちに、きらびやかな衣装をまとった人々が短冊と筆を手に、
流れてくる小さな船に乗った盃を見ながら歌を詠んだ場所かと思うと、
あまりの雅やかさにため息が出ますね・・・。
毛越寺の開祖は、慈覚大師円仁。
なんとこの旅でこの方の遺蹟に出会うことが多い事か・・・。
驚きです。
大火で焼失し、荒廃していたのを藤原氏第2代の基衡夫妻・第3代の秀衡によって、
復興されたのだそうです。
京のそれを凌いだと言われる規模の庭園の、雅やかさと美しい自然。
「吾妻鏡」によれば、当時は中尊寺をもしのぐ規模で、
その金堂の荘厳さは、「吾朝無双」だったと書かれているそうなのです。
鎌倉幕府に奪われるまで、どれだけ豊かな国だったのでしょうか。
想像を絶します・・・。
鎌倉幕府の保護ののちは、火災で焼失、
天正元年には兵火にあい、土壇と礎石を残すだけになり、
江戸時代には伊達藩により経済的援助が行われたそうですが、
周囲は水田となっていたそうです。
いつからここにおいでなのでしょうか。
何を見て来たか聞いてみたい。
毛越寺境内遺跡は、昭和29年(1954年)に5年かけて全面調査が行われ、
その規模や構造のほぼ全てが解明され、「吾妻鏡」の内容とも合致しているそうです。
伽藍もそうですが、この浄土庭園の橋脚・庭石・中の島においては、
当時の様子をよく残しており、平安時代の伽藍様式を示すものとして
学術的価値も非常に高いのだそうです。
奥州藤原氏は、ここに浄土を出現させようとしたんですね・・・
立石の姿が独特です。
とにかく広々として気持ちがいい。
そして美しい。
訪れることはなかったのですが、
義経が最後を迎えた衣川館(高館義経堂)は、ここと中尊寺のちょうど間くらいの
場所にあります。
義経がどんな人物だったかわからないのですが、
彼が幼少時ここから旅立って向かった鞍馬山を(よく知らずに)探索して出会った、
義経が毎晩鬼一法眼という人物のもとに通って兵法の修行をした場所や
その時に喉を潤したという水場や、
あそこからここまでの距離や当時の事などに、さまざま思いを馳せました。
北海道で義経が渡って来てその遺品を収めているという神社にも
偶然出会ったりしましたが、真偽のほどは分かりません。
ちなみに私が奥州藤原家の人々と初めて出会ったのは、
小学生の頃に父に連れられて行った上野の国立博物館。
当時干し首などの展示とともに、この藤原氏の3代のミイラなるものが
常設展示されていたのです。(レプリカだったようです)
それぞれの遺体の状況なども詳しく説明されており、
ひとつの首は損傷が激しく、顔面にはいくつもの刀傷とひたいの釘傷。
(たぶん晒し首にされた泰衡のものだったのでしょう)
強い権力と富を得た人物でも、そんな酷い目にあうのか・・・
と子供心に恐ろしく感じました。
この東北の地には、
まったく自分の知らなかった豊かな自然と文化と、
蝦夷と呼ばれ、畏れられ屈することのない力のようなものがあったことを、
この旅で強く感じたような気がします。
旅の途上の休憩地を探していたら、
思わず駆け寄ります。
満面の笑みです。(笑)
躍動感があって、まるで本物みたいです。
ここは道の駅みさわ斗南藩記念観光村。
会津藩主松平容保が、逆賊の汚名を着せられ23万石を没収されたのち、
明治2年に松平家の復興を、嗣子の容大(かたはる)を持って家名を立て、
斗南藩(となんはん)を立藩したそうです。
しかし2年後には廃藩置県で藩は廃止、青森県が誕生しました。
このときこの場所に、日本初の大規模な近代様式牧場が開かれ、
旧斗南藩士たちに、生きる希望を与えたのだそうです。
とてもステキなところでした〜〜〜また寄りたい。
旅はまだまだ続きます。