おきらくごくらく。

山と自然と不思議。日常のあれこれの雑記ブログ。

不思議な話。護良親王の首

昔仕事で鎌倉アルプスに行った時のこと。

最後に鎌倉宮に降りて休憩していた時、

ここにちゃんと寄ったのは初めてで、とある立て札に目を取られました。

 

「月首祭り」

 

く・・・、首祭り!???!

 

月首祭は「つきなみさい」と読むらしく、実はここだけではなく、

たくさんの神社で行われる毎月1日や15日の行事のことだったのですが、

この時はこの立て札が強烈に目に入りました。

 

そしてこの宮の由来をよくよく読んでいて気が付きました。

 

これは・・・、あの・・・

 

あの首の持ち主だ・・・・。

 

護良(もりよし・もりなが)親王。

 

鎌倉時代末期、後醍醐天皇の皇子として生まれ、

6歳で三千院に入り子供の頃から非常に聡明で、

人々の信頼を集め、なんと20歳で延暦寺の天台座主になります。

(当然父親がらみであったとは思いますが、文武に秀でた人であったようです。)

 

後醍醐天皇の鎌倉倒幕計画が側近から北条高時に漏れ、

大塔宮(護良親王)や後醍醐天皇始め側近たちにそれぞれ、

死罪、隠岐島・硫黄島・佐渡島などへの配流を宣言し兵を送ったため、

大塔宮は父を隠し、様々に知恵を絞って落ち延び、

楠木正成らと共に戦った様子がかなり詳細に残されています。

非常に智力と行動力に溢れた方だったのが分かります・・・。

 

7本の矢を受けて自害しようとしたところ、

すでに重傷を負っていた村上義光が、護良親王の甲冑を身につけ

身代わりとなって自害し、高野山に落ち延びた後も7千騎の武士が集まったのだとか。

人望も厚かったのが伺えます。

 

2年後、後醍醐天皇は隠岐の島を脱出して三種の神器を取り戻し、

護良親王の命令を受けて、新田義貞鎌倉幕府を陥落

このとき北条一門の283人が自害しました。

 

 

(7本の矢を受けて生きているって・・・

それだけでも奇跡のような話です。)

 

 

息子が命がけで挙げてきた戦果を、重用する足利尊氏などとともに

護良親王の立場や役割をすべて回収しようとした後醍醐天皇。

足利尊氏に野心ありと見た護良親王は、「再び乱世になる」と、

僧に戻るようにと勧める父の意見を拒み、征夷大将軍となります。

 

そしてその1年後(1335年)、

父と足利尊氏と義母などの護良親王を疎む人々の策略によって、

征夷大将軍を解任、捕縛され、送られたのがこの鎌倉宮(東光寺)なのでした。

9ヶ月間も幽閉されたのち断首され、そのとき28歳。

この2日後に鎌倉は北条軍により陥落。

護良親王の案じた通りに足利尊氏は勢力を拡大、

親王を失ったために後醍醐天皇は力を失い、乱世となりました。

 

 

権力者ってやつは・・・・。

 

 

 

この鎌倉宮は、元の東光寺の跡地に建てられ、

奥には9ヶ月間幽閉されたとする岩窟があるのですが、

本当の幽閉場所はどうやら違うとも。

その他親王の墓や首が置かれた塚があるのですが・・・・、

 

 

私が知っていたのは山梨県の石船神社(いしぶねじんじゃ)にいまも残る、

日本でただひとつの本当の人間の頭蓋骨に乾漆で造顔された

護良親王の首と言われる御神体です。

 

 

石船神社

石船神社

 

田畑を通る道の真ん中にある、小さな神社です。

小さくスッキリした境内には土俵もあり、

地元の方々に愛されている雰囲気がしました。



由緒書き

 

 

御神体である首級は、朱色に塗られた奥の社殿の中の金庫に、

厳重に保管されています。

御神体の首は人骨の上に造顔されており、

なぜか右目がなく、左目には日本独自の技法で水晶の玉眼が作られており、

頭部には金箔と梵字の跡があります。

その顔は非常に端正で、生きている人の顔を思わせます。

運慶などの鎌倉時代に多い造形法ですね。

(以下の石船神社のサイトに写真があります。)

 

tsuru-kankou.com

 

300年経ってから首を掘り返し?て、

当時の最高の技法を用いて親王の顔を複顔した・・・。

そここそ最も知りたい部分ですね。

誰が、なぜ、どうやって、

それまで首はどこでどうやって保管されていたのか・・・。

しかも行ってみてこの地が本当に人の少ない簡素な場所だと分かります。

 

 

手水鉢

手水鉢

 

この近くには、護良親王の首級を抱え、王子神社でそれを洗い(首洗いの井戸)

臣下とともにここまで逃げてきたという

雛鶴姫を祀った小さな神社とその名のついた峠があります。

敵を警戒し進路を甲斐・信濃路に変更した一行はここに差し掛かり、

親王の子供を身ごもっていた雛鶴姫はここで出産ののち亡くなり、

その子に関しても諸説あるようです。

 

現地を確認して、小説のようにリアルに描いていらっしゃる方がいました!

マイナー・史跡巡り: 首洗井戸④ ~雛鶴姫 その2~


(雛鶴姫その1から是非読んでみてください。)

 

 

 

一説では富士の古文献とされる宮下文書からの引用の作り話とも言われています。

しかしこれが護良親王以外のものだとしたら、

ここまで関連した史跡が残っているのも不思議。

 

雛鶴姫がどういう人なのか、出自や本名など、

何もわからないのですけれども。

 

本当は何がここであったのでしょうか?

知りたい。

 

 

近くに流れる桂川。

近くに流れる桂川。



猿橋と水道橋

猿橋と水道橋



桂川の緑の川面

泳ぎたくなりますね!



猿橋

猿橋

橋桁を全く使わない日本三奇橋のひとつで、

西暦600年ごろ百済から来た志羅呼(シラコ)という人が、

難航していた橋の建設の時に、

手を繋ぎあって対岸へ渡っていく猿たちを見て完成させた橋と言われています。

歌川広重の浮世絵にもなっているようですね。

 

年号が正しければ、

雛鶴姫が落ち延びて来た時には、すでにここにあったということになりますね。

 



橋の上から見る桂川。

橋の上から見る桂川。



人の想念というものはとても力があり、

無数の人生のドラマがあって、文字による記録が残され、

またそれにたくさんの人の思いが重なってゆき、

伝説というものも形作られて行きます。

 

これほどの出来事がありながら、

護良親王が菅原道真のような大怨霊になったという話は聞きません。

人に祟りを為すような人ではなかったのかも知れません。

 

人間というのは、

本当に不思議な生き物だと思います。

 

 

 

もう1人の征夷大将軍が出て来たお話し。

www.nekosippona.com

 

 

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